はなぜ、エンプレス杯に勝った後もすぐにはダート転向せず、芝のレースに出たのでしょうか?

1995年後半に走った5つのレースの話です。1994年からのホクトは芝のレースで好走こそするものの重賞勝利は札幌記念のみに留まっており、1995年6月のエンプレス杯に出走して圧勝したところまでは有名だと思います。しかしその後、本格的にダート戦に絞って出走し始めるのは年明けからで、その年の(水沢開催・勝ち馬ライブリマウント)、東京大賞典(勝ち馬アドマイヤボサツ)などには出走しませんでした。何故でしょうか?

当時のの方で、当時の風潮とか空気とかを知っている人、あるいは当時雑誌や新聞で関係者のこんなコメントを見た気がするとか、知っている人がいたら教えてください。推測や想像ではなく、当時のファンの人の回答を待っています。

補足

当時ダートレースの価値が低く見られていたのは知識として知っています。

知識からの推測や想像ではなく、当時の競馬ファンの人の回答を待っています。

回答

goh********:

当時は、芝の方がはるかに格上、と考えられていたからです。
ダートというのは、芝で走れない馬が出るレースと考えられており、それこそ、芝のG1馬がダートに出て負けてしまうようでは、とんでもない恥だ、というような評価をされていました。
実際、このエンプレス杯に、ホクトベガとヒシアマゾンが登録した、ということ自体が場にとっては大ニュースと言えるようなことでした。

ホクトベガは、そのエンプレス杯で歴史的圧勝をしましたが、あくまでも牝馬限定戦。しかも、その頭数は7頭立て、という少頭数。勝ったはよいものの、適正については半信半疑。
とりあえず、まだ走れる、というのを確認できたので芝に戻しました。しかし、やはり勝ちきれない。年齢もすでに6歳。そんな状況で、昨年、圧勝したダートではどうか、ということで川崎記念に出したのです。
当時、ホクトベガ陣営は「負けたら即引退」というのを表明しており、ダート路線へ行ったのは、最後の悪あがき的なものでした。
そうしたら、連戦連勝をしてしまったわけですが。

ちなみに、芝の方が賞金が稼げる、という部分については……

交流重賞自体が、1995年に始まったもので、中央馬が出走できる地方の重賞は現在と比べれば多くはありませんでした。
ただし、賞金額は決して現在と比べても見劣りすることはありませんでした。
例えば、95年の帝王賞の1着賞金は7000万円。現在は8000万円。
南部杯は5000万円。現在は6000万円。
エンプレス杯は4000万円で、これは現在と同じです。
で行われた開設記念は4000万円。現在の佐賀記念ですが、こちらは3000万円と現在の方が賞金が安くなります。

当時、春秋の天皇賞やなどが1億3500万円ほど。安田記念、マイルCSが9400万円ほどでしたので、交流重賞と中央のレースの賞金格差は現在の方が大きくなります。
ホクトベガは、芝のG3でも掲示板に載るかどうか、くらいの成績でしたので、賞金を稼ぎたいのであれば、交流重賞に出続けた方が稼げたはずです。

最後に、東京大賞典に出なかったのは、これは距離でしょう。
当時、東京大賞典は2800Mという長距離でしたので、流石に長いという判断だと思われます。

    goh********

    「負けたら即引退」と表明していたのは、96年に川崎記念に出走し、ダート路線に転向したころです。


142536:

単純にダートより芝の方がビッグレースも多く、稼げるからです。芝でも重賞そこそこ走るなら、ダート走らせるより当時は遥かに稼げました。しかも、ホクトベガは芝でもG1勝つほどの馬でしたから、可能なら芝で走らせたかった。ダート転向後も芝G1レースに出てたりしますし。


phl********:

今と違ってダート路線の番組が充実していなかったことと、と中央競馬の交流がさかんではなかったからです。
当時は今のように地方競馬も発展させないと生産が活性化しないという考え方ではありませんでした。


もーろくじーヽ(´o`;):

今と違い 明らかに格下扱い(賞金的にも)だったから。

芝でも 勝てるかもと言う色気も有ったのでしょう。


無気力P@ボカロP:

ダートが格下と見られていたからです。ダート路線が見直されている今よりずっと。ホクトベガもエ杯を勝っていて芝でも通用する馬と思われていましたし。