東日本大震災の日、何をしていましたか?
どこで、どうやって震災の事を知りましたか?
自分は西日本に住んでいますので、震災の事は実際の揺れなどでは知りえませんでした。
2011年3月11日。その日は自分は昼から地元の行きつけのパチンコ店で「緑ドンviva情熱大陸編」を打ってました。
その日はかなり出ました(8000枚ぐらい出ました)。
この「緑ドンviva」には、演出で大津波がきて、「デカいぜ~!」と言いながらドンちゃんが大津波をサーフィンする演出があるんですが、偶然か否かわかりませんが、その演出を見ているとき(結構アツめの演出ではあります)に、心の中で「実際に津波が来たら、こんなもんじゃないだろうに…不謹慎な演出だな」と思っていた事を覚えています。
交換しにカウンターへ行った時に、カウンター横に「地震義援金」の募金箱が置いてありました。
自分は???なんだ地震って?。と意味が分からないながらも、なんか地震なんかあったっけ?と、その募金箱を見て考えましたが意味が分かりませんでした。
※今思えば、このパチ屋は地震発生直後から、よくもこんな義援金とか思いついな…と思います。
震災の事を知ったのは、帰宅後に録画してた番組を見ようとしたときに、震災報道で番組があっていなかったのを知った時でした。
質問ですが、東日本大震災の日(大震災の時)に、みなさんは何をしていましたか?(何を打っていましたか?)
どこでどうやって震災の事を知りましたか?
よろしくお願い致します。
ベストアンサー
保守こそ正義:
大震災の日、その日は平日で、私は小学校に行っていました
確か社会の勉強をしていたと思いますが、授業中私のクラスメイトが「地震だ」と言ったんです
でも周りのみんなは気づいてなくて、五秒ほど笑っていたと思います
でもほんとにきました
私は岐阜県なので、震度三程度でしたが、かなり恐怖を覚えました
しかし、日本で震度三程度なんて普通にあったので、特に問題視せず学校から帰宅しました
そして親から「大丈夫だった?」と聞かれましました
この時の心境として、「なんであれぐらいで?」と思っていたと思います
しかし、アニメを見ようとしてテレビをつけると、、、流れてきたのは津波の映像でした
私は内陸の県なので津波というのは何も知らず、最初は海が陸に上がってきているという不思議な感覚に襲われました
何かしらのパニックになっていたと思います
しかし津波というものを理解しだすに連れ、その事の重大さが見えてきました
そして死体というものを初めて見たのもこの大震災がきっかけでした
約一週間後、親の仕事の関連でパソコンが家に来ました
そしてそれを教えてもらい、早速ネットで調べていると、足が変なふうに曲がった死体の画像が出てきました
私はそれを見て、号泣したことを覚えています
なにせ小学生が見るには、悲惨な画像でした
自分が死んだわけではないですが、自分もああなるのではないかと恐ろしく、号泣しました
まああの時は、いろいろな初体験や知ったことがあり、記憶に残っています
- ID非公開:
- 震災の中継のライブ映像は、普通のテレビ報道にも亡くなっているっぽい方や、逃げ遅れて波にさらわれる人が映っていましたね。
※自分はそういう映像を珍しく思い、レコーダーに録画した報道映像をずっと保存していましたが、あるときあまりにも不謹慎だと思い、消去したことがありました。
回答ありがとうございました!
その他の回答
アザ:
働いてましたね♪f(^_^;
某風俗店で…φ(・・;
立ち仕事だったので、地面の揺れを感じながら、待機中の姫達に声をかけたりしてました(;・∀・)
客はタイミング良く入って無かったです♪
( v^-゜)♪
あ、あれは関西の時だ…
(;・∀・)
東日本の時は、ホールで打ってて「だれか台パンでもしてんの?」と、周りを見て天井を見たら機種の垂れ幕が揺れてて、気付きました…(^ー^;A
平然と見知らぬ常連さんに「凄いですね~」と、声をかけてました!!
(; ̄ー ̄A
アザ
- ID非公開
- 自分は阪神大震災の時は学生でした。
回答ありがとうございます!
sak********:
私は、その時は高校生で授業を受けていました。福島県の高校だったので、ものすごい揺れでした。大きい校舎がまるでアトラクションの様に揺れたのを憶えています。校庭に避難するまでに、ヒビの入った壁を見て地震の大きさを理解しました。
避難した校庭でも余震は続き、不安はつのりました。実家が宮城県でしたので、いつもは電車で帰るのですが、地震により止まっていたので親に迎えに来てもらいました。帰り道の国道は、先の見えないほどの渋滞でこのままでは家に着くのがいつになるか分からないと思い、山道を帰ることにしました。山道を進み、実家の近くの国道に合流した時に唖然としました。津波により、ガードレールは見たこともないくらい湾曲し、流木が道路をふさいでいました。その流木を、後ろの車の運転手と協力してどかし、なんとか実家に着くことができました。
実家は古かったのですが、半壊状態でして、このまま就寝するにはあまりにも危険だったので、近くの親戚の家に一ヶ月近く住まわせてもらいました。電気や水道は止まり、冬だったので寒さとの戦いでした。
今は、家を建て直し、以前と同じ場所に住んでいます。幸い家族は皆元気に過ごしています。あの日のことは、忘れることはないでしょう。
- ID非公開
- 回答ありがとうございます。
地元の人はやはり大変だったんですね。
5年たった今でもまだ震災の爪痕は残ってると思います。
西日本に住んでいる自分も、あの地震の事は忘れる事は無いと思います
abc********:
質問者様と同じく私もパチンコ店にいました。
私は横浜なので、揺れはすぐに感じました。
パチンコのドル箱があっちこっちに暴れだし、いつもの地震と違い ヤバイと言う感覚になりました。
外にでたら遠目で道路の揺れも分かったし、その後の余震も凄かったのも記憶してます。
- ID非公開
- 回答ありがとうございます。
関東地方は、地震に気付かないのはあり得ないくらいの揺れだったんですね。
保守こそ正義:
大震災の日、その日は平日で、私は小学校に行っていました
確か社会の勉強をしていたと思いますが、授業中私のクラスメイトが「地震だ」と言ったんです
でも周りのみんなは気づいてなくて、五秒ほど笑っていたと思います
でもほんとにきました
私は岐阜県なので、震度三程度でしたが、かなり恐怖を覚えました
しかし、日本で震度三程度なんて普通にあったので、特に問題視せず学校から帰宅しました
そして親から「大丈夫だった?」と聞かれましました
この時の心境として、「なんであれぐらいで?」と思っていたと思います
しかし、アニメを見ようとしてテレビをつけると、、、流れてきたのは津波の映像でした
私は内陸の県なので津波というのは何も知らず、最初は海が陸に上がってきているという不思議な感覚に襲われました
何かしらのパニックになっていたと思います
しかし津波というものを理解しだすに連れ、その事の重大さが見えてきました
そして死体というものを初めて見たのもこの大震災がきっかけでした
約一週間後、親の仕事の関連でパソコンが家に来ました
そしてそれを教えてもらい、早速ネットで調べていると、足が変なふうに曲がった死体の画像が出てきました
私はそれを見て、号泣したことを覚えています
なにせ小学生が見るには、悲惨な画像でした
自分が死んだわけではないですが、自分もああなるのではないかと恐ろしく、号泣しました
まああの時は、いろいろな初体験や知ったことがあり、記憶に残っています
- ID非公開
- 震災の中継のライブ映像は、普通のテレビ報道にも亡くなっているっぽい方や、逃げ遅れて波にさらわれる人が映っていましたね。
※自分はそういう映像を珍しく思い、レコーダーに録画した報道映像をずっと保存していましたが、あるときあまりにも不謹慎だと思い、消去したことがありました。
回答ありがとうございました!