中野浩一って最盛期は必ず一着だったのですか。
ベストアンサー
ozu********:
全盛期は20代、76~85年ぐらいまでだね。
一番強かった頃は脚の違いでホームからカマシ逃げて後続千切ったり、
今で言うとスーパー新人がチャレンジで見せるような競走だった。
当時はバンクも今より悪く、ペースも速かったので、
トップクラスでも上がり12秒切るか切らないかというレースも多かったんだが、
中野は10秒台を出して驚かせた。
今で言えば10秒0~1を出すようなもの。
勝率に関しては残念ながら年間で75%ぐらいが最高だったと記憶している。
やはり昔も今も変わらず、スーパー新人には先輩の洗礼で、
自分が沈んででも若い選手を潰そうという包囲網を敷かれたり、
また自身の脚の不調の時はさすがに簡単には勝たせて貰えなかった。
それからやはり競輪は強力先行のいる地域が強くて、
宮城王国、群馬王国、その後の清嶋・滝澤を中心とした東京・千葉軍団も、
結局は強力先行選手が居たから。
若い頃は更にダービー決勝で埼玉に2年連続でやられたのも、
道中横に脚を遣わされ、強力先行新井に逃げられたもの。
つまり九州に他に強力先行が居なかった事で、
どうしても当時の誘導の引っ張る先行有利の競輪ではカマシ、捲り型は不利で、
4走に1走は頭を獲れなかった。
位置取りに拘り過ぎたかなと思う。
縦に踏めば勝てる展開も、位置取りに動いてもつれて自滅する事もあったから。
九州にもっと強力先行が居たら年間勝率はもう1割は塗り替えられたと思う。
吉岡が出て来た時には36~37歳だったからね。
しかも吉岡の恩恵を受ける事なく引退してしまった。
年間の歴代トップは神奈川県の高原永伍、千葉県の滝澤正光の80%。
特別競輪含めての勝率だから、80%でも神憑り的な勝率だよ。
その他の回答
jun********:
千葉の鈴木誠が全盛期時のG1オールスターだったかな?九州作戦で『顔見せの時は、解らず』平田 小川 中野の並びがあった。あの時はなんて自己チューな奴と思った。結果失敗したけどね!いつも後ろから井上に喰われてた。九州の三羽ガラスの一人佐々木にG1の決勝で競られた時もあった。でも マスコミに取り上げられるのも世界選手権V10したおかげ。競輪界にとってすごい貢献し偉大な人なのは、確か。
tom********:
中野が落ちぶれて来た時のを少し見ましたが、常に冷静でけして熱くなることなく考えて走ってましたよ♪また後輩たちがよく駆けてくれていました。人望もあったのだと思います。